ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

他人の人生が気になることなど滅多にない

f:id:sohsuke729287:20190520013918j:plain

 

 

 他人の人生が気になることなど滅多にない。

これは嘘だ。すごく気になる。

ただ、その真実を背負う自信や、消化するまでの葛藤に自分が苦しむ覚悟がないのだ。

 きっかけは大好きなフォロワーさんへの質問だった。

「人の人生が気になるというのはどういった感覚でしょうか?」

 わたしはよく『どんな人生を歩んできたのか』という質問を受ける。

それはわたしが年齢の割に垢ぬけた(大人に言わせると生意気な)言葉を使うだからとか、主にそういったことらしい。

 わたしの人生はまだ二十年にも満たない(すでに三十五年は生きた気分なのに!)。

その二十年にも満たない人生で様々なことが起こったのは、私だけではなく、ほかの少年少女たちにも当てはまることだ。その数多の少年少女のなかから一部の人たちは「あなたの過去を知りたい」と言ってくれる。これはどういうことだろう?

 わたしは愛した人の過去を知りたくなる。

つまり、自分の過去を知ろうとしてくれている人たちは、少なからずともわたしに好意や興味を抱いてくれているのだろう。

これは嬉しいことか? そうかもしれない。

少なからずとも、大好きなフォロワーさんから「あなたの過去を知りたい」と言われたときは、とても嬉しかった。

 もともと、このプロジェクトは進行していて、遅かれ早かれ、わたしの過去はインターネット上に公開するつもりだった。

しかし、企画の立ち上げの段階になって「なぜ自分の過去を公開する必要があるのか」といった疑問に陥ることになった。

はじめは写生のつもりだった。

そうして、自分を過去や血統の因果から切り離す。「止血」の概念を持っていた。

 今はどうだろう。これはどういったことだろう。

わたしは世界を恋人にする気はないのだ。そんな覚悟は到底持てない。

顔も知らない人間に嫌われることを懸念しているのか?

自身の身元がバれるのを恐れているのか?

そんなものは大して重要じゃない。神経衰弱だ。わたしには勇気がある。

すこし物足りないけれど、勇気がある。

そういうことにわたしは感銘を受けたのではないのだろうか?

fireandjoyのブログ見て、可能性を感じたのではないのだろうか?

わたしは孤独が無くなるのを恐れている。

もちろん、孤独はなくなるものではない。

しかし、「個人」ではなくなるということだ。

Im everywhere.ということになってしまうわけだ。

これに対する分別を、わたしは身につけなくてはいけない。

わたしの「個人」を書かなくてはならない。