他人の人生が気になることなど滅多にない
他人の人生が気になることなど滅多にない。
これは嘘だ。すごく気になる。
ただ、その真実を背負う自信や、消化するまでの葛藤に自分が苦しむ覚悟がないのだ。
きっかけは大好きなフォロワーさんへの質問だった。
「人の人生が気になるというのはどういった感覚でしょうか?」
わたしはよく『どんな人生を歩んできたのか』という質問を受ける。
それはわたしが年齢の割に垢ぬけた(大人に言わせると生意気な)言葉を使うだからとか、主にそういったことらしい。
わたしの人生はまだ二十年にも満たない(すでに三十五年は生きた気分なのに!)。
その二十年にも満たない人生で様々なことが起こったのは、私だけではなく、ほかの少年少女たちにも当てはまることだ。その数多の少年少女のなかから一部の人たちは「あなたの過去を知りたい」と言ってくれる。これはどういうことだろう?
わたしは愛した人の過去を知りたくなる。
つまり、自分の過去を知ろうとしてくれている人たちは、少なからずともわたしに好意や興味を抱いてくれているのだろう。
これは嬉しいことか? そうかもしれない。
少なからずとも、大好きなフォロワーさんから「あなたの過去を知りたい」と言われたときは、とても嬉しかった。
もともと、このプロジェクトは進行していて、遅かれ早かれ、わたしの過去はインターネット上に公開するつもりだった。
しかし、企画の立ち上げの段階になって「なぜ自分の過去を公開する必要があるのか」といった疑問に陥ることになった。
はじめは写生のつもりだった。
そうして、自分を過去や血統の因果から切り離す。「止血」の概念を持っていた。
今はどうだろう。これはどういったことだろう。
わたしは世界を恋人にする気はないのだ。そんな覚悟は到底持てない。
顔も知らない人間に嫌われることを懸念しているのか?
自身の身元がバれるのを恐れているのか?
そんなものは大して重要じゃない。神経衰弱だ。わたしには勇気がある。
すこし物足りないけれど、勇気がある。
そういうことにわたしは感銘を受けたのではないのだろうか?
fireandjoyのブログ見て、可能性を感じたのではないのだろうか?
わたしは孤独が無くなるのを恐れている。
もちろん、孤独はなくなるものではない。
しかし、「個人」ではなくなるということだ。
Im everywhere.ということになってしまうわけだ。
これに対する分別を、わたしは身につけなくてはいけない。
わたしの「個人」を書かなくてはならない。