【近況】きっと皆いつか死ぬことを忘れているのだ
やっと家を出るために探してた潜伏先が見つかりそうだ。
1か月間前から段取りしてあったのに、派遣会社がモタモタしているおかげで、その期間は無駄になってしまった。
はじめから複数の会社に登録しておかなかった自分にも原因はあるが、やはりインターネット上の派遣会社というのは比較的段取りの悪いところが多いという印象。
やっと見つかった潜伏先は、とてもボロい。
ある有名温泉宿の社宅寮に当たる場所なのだけど、写真で見た感じも、担当から聞いた話にも、とても清潔な場所ではないらしい。
たとえば、風呂場や洗濯場所の床などには黒カビが生えている始末で、これは入寮時になんとかしておきたい課題の一つだ。
なぜ、そんな場所を選んだのかと聞かれると、単純に時間が迫っていた。
それに、その水場周辺の掃除さえできれば、あとは部屋も普通の和室(未確認だが担当は‘普通‘と言ったから信じたい)らしいし、部屋には冷蔵庫にエアコンも完備してある。
勤務先である宿での仕事も、ワゴンなどでの食事の運搬(配膳ではない)が主な業務らしく、過酷な自動車工場での3か月間を体験した自分にとってこの程度の単純な力作業は大丈夫に思えた。
あとは勤務までの事が順調に運んでくれるのを願うばかりである。
親には一応、先のことについて報告した。
わたしは親への「報告」というのをサボったことがない。
少年期の頃もそうだし、いわゆる「反抗期」のときも欠かさなかった(親に言わせると我が子は万年反抗期らしいが)。
今回も例に漏れず、勤務先が決まりそうなことを報告すると、毛ほどの興味を示さず、ただひたすらに机に向かって化粧している。
そこで、この1か月の段取りの悪さをぼやいてみると、皮肉たらしく鼻を鳴らしながら笑い、なにやら人生の教訓めいた発言をしだす。
「派遣会社さんとは仲良くすること」
あんたには言われたくない、と思い、実際にそう言った。
すると次は、わたしの過去の無断欠勤の件だとか、個人的な失敗だととかを口々に列挙し始め、とりあえず「自分のアドバイスは正しいから、聞け」という態度に出てきたわけだ。
そうじゃない、仮にあんた(母)が正しかろうが正しくなかろうが、わたしは「あんた」にそれを言われたくない。
特別だ。
お前にだけは言われたくないのだ。
普段はこういうことも言わないでいられるのだけど、今日ばかりは抑えきれなかった。
わたしに少しも親の顔を見せてほしくなかった。
それはとても都合のいいことだ。
こういうことを書いても、理解してくれる読者をわたしは二人しか知らない(その二人には感謝してもしきれない)。
一人はアルバイトのときの先輩で、もう一人はSNSの人だ。
彼らしか、わたしにそんな口を利くのは許さない(彼らは私にそんなことを言おうとしない)。
そして、仮に他の連中にこういうことを言われても苦笑いで済むのだが、わたしは母だけは許せない。
前置きが長くなったが、母に明確にそう言ってやった。
すると、「わたしはちゃんとやっている」だとか、「あんたは好きなことやっている」ということを言い出す。
的外れ。
そんな湿っぽい理由でわたしは言っているのではない。
こんな口調でも、互いのためを思って言っているのだ。
あなたはいつも好きなことをしてきた。
わたしも好きなことをしてきた。
けれども、それはまるで親子じゃない。
事実、わたしはあなたを母とは認識していない。
それでも、互いに好きなことをできたときはよかった。
今は違う。
一緒の家で寝食をともにするようになった。
今までも良くはなかったが、これからはもっと悪くなる。
わたしはこれ以上の悪化を想像できない。
だから、今回も今まで通り「放っておいてくれ、勝手に出ていくから」と伝えた。
すると、どうだろう?
泣き出すではないか。
わたしが腹を空かせたときに、食事を用意してくれたのはいつも「わたし」だった。
わたしが孤独を感じたときに、「いつか他人も自分も愛せるようになる」と言ってくれたのはいつも「わたし」だった。
遊び相手も、話し相手も、勉強も、いつも「わたし」だった。
「あなた」ではなかった。
あなたはいつだって女だった。
これからもそうだろう。
「家族愛」を否定されて泣くあなたは、恋人と喧嘩して泣いているときと同じ顔をしている。そういうことだ。
わたしはそういうあなたを5歳の頃から知っている。
あなたは私の何を知っているだろう。
わたしはいつも「わたし」に養われてきた。
あなたに感謝できることは、一つだけある。
それはあなたの言う通り「好きなことをさせてやってる」ということだ。
あなたは、わたしが「わたし」を養うのに口出しをしなかった。
わたしが不健康になっても放っておいてくれた(わたしはこれを望んだから)。
だが、これからは違う。
あなたは泣く。わたしは去る。
やることは決まっている。
わたしは、こんな場所であっても「帰る場所」を失うことになる。
それを探す、というよりは、「作る」ために旅立つ。
きっと悪くない。
仮に新しい場所が悪くても、そこには「新しい悪さ」があるだけだ。
退屈はしないだろう。
わたしには愛すべき人と、愛すべき過去がある。
こんなにしあわせなことがあるだろうか。
不幸があるとすれば、片時でもわたしがこの幸せな事実を忘れてしまうことである。
それは死に近い。そしてそういうときにわたしは死を望む。
この幸せを常に復習できる環境をつくりたい。
どのくらい人々がそれを実現しているのだろうか?
きっと皆いつか死ぬことを忘れているのだ。