ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

泣きじゃくりながら書いた、余命十日になったらすること。

『ここでの死の定義』

・十日目から十一日目に日付が変わる瞬間に死ぬ

・霊界などの概念を一切排除した死生観を持つ心理状態

以上です。

 

f:id:sohsuke729287:20190515184534j:plain

 

 

 

 

1日目

 自分が死ぬことを知らない最も愛する人と一日中散在しながら遊ぶ

 

 

2日目

 普段よりちょっと頑張った一日を過ごす。

 

 

3日目

 自分が死ぬことを知らない最も愛する人と、夜の海を見に行く。

同行が無理なら一人でも行く。過去について語り合う。一人なら自分と語り合う。

 

 

4日目

 だらしない一日を過ごしながら、いままでのことについて振り返るための日記をつけはじめる。

 

 

5日目

 日帰りで思い出の場所に行ってみる。

 

 

6日目

 最も愛する人、もしくは嫌いじゃない人なら誰とでもいいから、満足するまでスキンシップをとる。

 

 

7日目

 子供と触れ合える場所に行く。

柔らかい手や肌に触れたい。たくさんお話をする。

 

 

8日目

 早朝には起きて部屋の片づけをする。

完全に日が昇ったら、だらだらコーヒーでも飲みながら日記の続きを書く。

 

 

9日目

 スリリングなことをする。できれば最も愛する人にそれに挑戦している自分を見ていてほしい。帰りに焼き肉とか、普段は好んで食べない胃もたれするようなものを沢山食べてからホテルで就寝する。

 

 

10日目

 帰宅して、日記が途中ならかけるところまで書く(きっと書ききれない)。

片付けが途中ならできるところまでする(床拭きが終わっても片付け続ける)。

 時間が間近になると、ベッドなどの広くて柔らかい場所に、一人、膝を抱いてうずくまる。

自分が死ぬのを知らない最も愛する人にメッセージを送る。

できれば電話して、声を聴きたい。

それで泣き出してしまっても、死ぬことは言わない。言いたくない。

 カーテンを目一杯に開けて、それがどんなに見放しのわるい夜空でも眺める。

焼けるようなウィスキーをストレートで飲みながら、クラシックを流す。

サンダルウッドのお香で部屋を満たす。

自分の最期を書いていて、愛する人を呼べばよかったと思う。

でも、きっとその人は遠くいたり、仕事していたりする。

だから、せめて自分で、自分の頭を撫でながら死ぬ。

 最終日の十日目にして、これは一番理想的ではない日だ。

これは自分にとって、ぜんぜん幸福な死じゃない。

結局、自分が選んでしまうであろう死だ。

 本当は最後まで愛する人の腕に抱かれながら、頭を撫でられながら死にたい。

死ぬ直前まで、泣きわめきながら自分でも何を言っているのか分からないような言葉で愛を伝えたい。

迫りくる真っ暗な孤独を、愛する人の腕に、しがみつきながら待ちたい。

できれば、死んで口もきけなくなった自分にキスしてほしい。

そして、腐らないうちに土葬してほしい。

 これが叶わないなら、孤独に押しつぶされて、日付が変わる前に首を吊ってしまうだろう。

この世界では、余命十日間でなくても、こういうことが起きる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あとがき』

 

 本当は愛する人の腕のなかじゃなくても良いのかもしれない。

ただ、大多数ではない人。

そう、一対一の状態で死にたい。

私個人の死を、その人、個人に看取られたいのだと思う。

それが愛する人なら幸せかもしれない。

しかし、それ以上に『愛する人』が看取り人として最もふさわしいのだと思う。

看取るというのは想像を絶する重荷だから、できれば、望んでその荷物を引き受けてくれる人間が好ましいのだろう。

それは『自分が愛している』と言える人間だけだと思う。

そして、わたしが『愛している』と言える人間は、実際、自分のことを愛してくれている人間だけ。

愛情と死というのは、とても似ている。

これは自分にとって要分析事項のものなので、その因果について知っている人は『ネタばれ』しないでいただきたい―

 つまり、愛している人というのは『自分の時間』を預けられる人間。

自分が『相手の時間』を受け入れられると条件にあると思う。

 さっきから『思う』という言葉が多いように、この記事には平和ボケした男が突発的に書いた死生観が綴ってある。

これからも、この「あとがき」は更新していくつもりだ。

ただ一つ言えるのは、オリジナルな死とはなんだろうか、ということだ。