誰かとの暮らし
誰かとの暮らし
いままでは、それがパキラの木であったりした。
母子家庭で生まれ育ったわたしは、「通常な家庭」や「通常の母子家庭」よりも孤独感を伴う時間を多く過ごした。
一人っ子ではない。
五つ上の姉がいる。
そんなわたしが「孤独感」などというと鼻で笑われてしまうだろうけれど(私自身が鼻で笑っている)、だからこその「孤独感」なのだ。
十四歳までは、姉や母とは、基本的に毎日顔を合わせた。
自分は家庭内では比較的おしゃべりで、学校であったことや、得た知識やを披露してみるのだが、彼女たちがそれに応答したのは指で折る程度しかない。
いつも無意識に聞き流す、車内のラジオ放送のように、わたしの言葉は聞き流された。
つまり、会話はなかった。一方的に話すだけ。
これはわたしが生来のINTP-Aだということも起因しているかもしれない(反響板的会話)。
しかし、相槌はおろか、明確な質問への返答もなかった(わたしは質問することが多い子供だった)。
例えば、小学校二年生のころ、わたしは「中途半端」という言葉の意味を知りたくなった。
辞書で引けばいいだろう、と思われるかもしれないが、わたしは人が実生活で認識している意味が知りたかった。
そこでまずは姉に質問する。
「お姉ちゃん、中途半端、ってどういう意味?」
「中途半端は、中途半端よ」
そこで母に質問する。
「ママ、中途半端、ってどういう意味?」
「中途半端は、中途半端よ」
同じ回答に腹を立てる自分。
二人は同じ顔で笑っていた。
わたしにとっての家族団欒とはいつもこんな風景だった。
わたしが発言するだけ。
母と姉はひどく仲が悪かったから、二人が顔を合わせて笑うのはわたしに向かって笑うときだけだった。
この様に、まともな会話を家庭内で経験できない子供は、学校社会でのコミュニティー形成にも苦心した。
自分は仲良くなりたくて、親切に話しかけているつもりなのに皆離れていく。
そういったことに疑問を覚える少年期だった。
放課後、埃っぽい部屋のなかでいつもわたしは頭のなかを泳いだ。
子供の妄想。神様について。信仰心について。
そういう時間はゆっくり流れた。
だから、時を早くしてくれる友を探した。
他の男子より、とりわけ女子と遊ぶことが多かった。
会話もそちらのほうが弾んだようだし、安心できた。
母親の恋人の暴力に怯える日々を過ごしていたわたしは、同い年の男児にさえ、殴られる可能性を意識しながら接さなければならなかった。
こわかった。
十二歳のときには、母が恋人と別れた。
ちょうど自分が中学生になるころだった。
六歳からの、それまでの暴力の日々は終わった。
かといってこれがわたしにとって幸福であっただろうか。
いまとなってはそうだと言えるかもしれない。
結果論でしかない。
中学校は二年のときに不登校になった。
体調不良から始まった連休で「なぜ学校に行く必要がある?」という疑問が募った結果だった。
ちょうど母が今の再婚相手と交際を始めた。
カラオケ通いや、オンラインゲームにのめり込む生活をした。
そこで様々な人たちに出会い、葛藤する機会を頂いた。
中学校三年生のとき、ゲーム機をすべて捨てた。
きっかけはサカナクションだったろうか?
別にあのバンドがわたしに断捨離を教えたのではない。
ただ「アイデンティティ」という曲を聴いた瞬間、自分のなかで何かが変わった。
わたしの居場所はゲームの世界ではないと顕在的に認識した。
母が再婚した。
再婚の際に一頓着あった。
わたしと母と再婚相手と会食をしたのだけど、そのときにわたしが母の肩を揉んだのが気にくわなかったらしく(都合のいいあてつけとしか思えない)、婚約解消目前まで揉めた。
結局、わたしのせいだったらしい。
母は泣きついてきた。
わたしはそれを慰めなければならなかった。
母のスマートフォンで再婚相手にメールを送り、直に事情を聴いた。
「他人の携帯を使うのは、気持ち悪い」の一点張りだった。
結局、わたしが母の肩を揉んだせいだったらしい。
何事もなく二人は結婚した。
その後数年は、わたしたちは互いに接触をさけた。
母は再婚相手との生活を選んだ。
朝の出勤前と、夜の着替えのときだけ戻ってきて、寝食は再婚相手の実家で行った。
そのときには姉も二回の中絶手術で母と揉めて、居場所を失い、わたしは一人、自炊の生活を送った。
そういう生活がこれまで続いていた。
家を出て、偽物がいなくなった。
ひどく何も変わらなかった。
ずっと一人だった。
愛情を感じているときだけが満たされた。
それ以外の時間は自分と向き合った。
胸が張り裂けそう、と言う人がいる。
わたしは、胸を張り裂きたい人間だ。
そうすれば何か見つかるかもしれないじゃないか。
感傷に浸るとポエムが出てくる。
ゆっくり、時間をかけてお話ししますね。