ガジュマルの木の鼓動
ガジュマルの木の鼓動
三連休はあっという間に過ぎた。
一日目はすごく眠った。
起きて、社食を食べに行って、あとは何をしたのか忘れた(部屋でずっと考え事をしていたような気がする。ひどく落ち込んでいて、人恋しくなった)。
ある人からの手紙が旅館のシステムで手元に届くのは連休明けになると知って、妙に憂鬱になった。Amazonで注文した日用品の発送が連休中に行われそうにないのも原因であった。
二日目は自分なりにアクティブな一日だった。
北神図書館まで行って、図書カードを作ったりした(在勤を証明するものが無かったわたしは、リゾート派遣の担当とのEmailでのやりとりを開示することでカードを作成することができた。司書さんの柔軟な対応に頭が上がらない)。
図書館で、パソコンを広げるのだけど、思ったより身が入らなくてすぐに撤収した。
ここは主に資料調達のために使うことになるだろう。
寮へと引き上げるために駅へと向かう前に、マクドナルドでコーヒーとフライドポテトを注文して休憩した。
わたしはコンビニでの経験があったせいか、『客と店員』、つまりカウンターを挟んだ関係に陥ると、それが誰であろうと接客をしてしまう。
相手が「店員」であってもだ。
たぶん、店員さんたちから見たわたしは普通の客じゃない。
店員と店員の対話なのだから。
外を眺めながらポテトを無心で頬張る。味はなかった。
コーヒーはうまく、本格的なカフェインに気分が良くなった。
しかし、飲食の最中にコバエが集ってきて集中できず、一気にコーヒーを流し込むと、マクドナルドを後にした(毎日温泉に入っているのに、これではわたしが不潔みたいだ)。
駅で切符を買おうとすると、ベビーカステラや、その他の菓子類を催促する人たちが甘い匂いと共にうろうろしていた。
キャリーカートを引く中国人がたむろしている、切符売り場を抜けると、帰りの電車にのりこんだ。
温泉街は山を切り崩した土地が多いのだろう。
わたしが滞在するここも、その名残である坂道が多い。
というか、ほとんど坂道だ。
実は、図書館に向かう前から目星をつけておいた店がある。
その店は、このあたりの店の例に漏れず坂道に位置していて、ほんとうに誰か買い手がいるのか、と思えるほどこじんまりとした園芸ショップだった。
駅やコンビニに行くのにも毎回通る場所なので、目につく。
わたしはその店の裏に展示してあったガジュマルの木に惹かれた。
挿し木によって株分けされて、煉瓦鉢を模したプラスチック容器に植えられた木。
先日、通りかかった際、思わず足を止めて、その樹皮に触れてみた。
すると、ちいさな赤ん坊の脚程度の太さの木から、確かな鼓動が伝わってくるのである。
正直、まったく無縁の土地で孤独感を覚えてたわたしにはとても効いた(ホームシックではないことは強調しておきたい)。
家出する前は、それがパキラの木だった。
彼らに触れていると、静かな鼓動が全身に澄み渡る。
彼らが、そこでたしかに生きていることを感じられる。
わたしは、彼らのそんな生き様に感激するのだ(一種の森林浴効果)。
値段は940円だった。
新生活を迎えてから一週間目のわたしにとっては安い物ではないけれど、とても良い買い物をしたと思う。
店員さんは三十代くらいの愛想のいい茶髪が特徴的な女性で、湿っぽい初夏の空気で目元のラメが光っていた。
わたしのような若い男性客に物珍しそうな反応を見せながら、互いの出身地や仕事について語った。彼女は独身で、今度の休日には奈良に登山に行くらしい。
「アクティブですね」
「そう、独身だから」
部屋に帰ってガジュマルの木を窓枠に飾ると、こういう買い物をする自分がひどく愛おしくなった。
カフェインで気分がよかったのもあって、とにかく愉快だった。
そうして、しばらくは図書館の本に目を通したり、小説やブログを書いたりして時間を過ごすと、このあたりでは有名な日帰り温泉に行くことにした。
三日目はさらに何もなかった。
勤め先である館内を探検したり、図書館で借りた「安部公房とわたし」と「キャリー」を読んでいた。
そうして、こうして、ブログを書いている。
単調だな、と思う。
心境に対しての現実が単調なのだ。
これを盛り上げるには、わたしの行動と、給料日までの単調な日々を過ごすほかない。