西村賢太にはなれない。
西村賢太にはなれない。
そういうことを目指していた。
そうすることを企んでいた。
私小説のような試みだ。
彼の本を読む以前に、川端康成をはじめとした文豪たちや、オーストラリアの写真家、Nirrmi FirebraceのブログやSNS運営を見て、同じようなことができると思っていた。
自分も彼らに引けを劣らない体験や、経験があって、なおかつそれを上手く「読み物」として完成させる、確信のようなものがあったからだ。
実際は違った。
自分の意図しないところで、自分の意図しない場所を覗かれるという現象について、なんの考えも持っていなかった。
よく考えなくても、こんなことは誰にだって思い当たることだろう。
例えば、人に住所を教えるようなときだ。
相手の氏名、住所、職業、人柄を知ってなお、相手が信用するに値する人物だと確信できるような場面にやっと教えられるような情報。
彼らのようになるというのは、ある意味では、自分の心の住所を不特定多数の人々に晒すことなのだ。
別にこんな風に真実めいた書き方をしなくても、こんな問題は一番初めの、この企みが頭のなかを横切ったときから意識しているべきことだったのだ。
一応、これについてまったくの懸念や関心をもっていなかったわけではない。
懸念や関心を持ちつつも、結局は、燃え盛る火の輪を、無傷でくぐるか、火傷を負いながらくぐるかの違いに思われたのだ。