ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

さようならは五枚の蓋

「さようならは五枚の蓋」

 

 

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 さようなら。おとうさん。

 さようなら。おかあさん。

 さようなら。兄弟。

 さようなら。おばあちゃん、おじいちゃん。

 さようなら。恋人。

 さようなら。自分。

 さようなら。さようなら。

 

 

 さようなら、ということが何度ありましたか?

それも生きている人に別れを告げたことが。

ご遺体にさようなら、というのは差し迫った儀礼でありますが、まだご存命の人に「さようなら」というのはなかなか無いことですし、あるとしたら貴方はどこかわたしに似ていましょう。

 

 さようなら、といったところで何になるのだ。

狭い世の中、偶然すれ違うことだってあるし、人はとことん気分屋であるから「気分転換」くらいの気持ちで「さようなら」という文句をしたため詠んだときの、心に閉じ込めたセンチメンタルな決意を換気してしまう。

二人はふたたび同じ窓の内側で時を過ごすわけでありますが、それでもやはり時間のいたずらとかですれ違い仲たがいを繰り返し、終いには「さようなら」をもう一度繰り返す。

今度も以前と同じようなセンチメンタルな決意を、心の窓を何重にも増設して逃がすまいとするのだけれど、そんな具合では長くは息がもたないということで、次第に窓は一枚、また一枚と開かれていき、網戸の一枚になったころに私たちは老後の生活に飽き飽きし始めるわけである。

 

 一種の現実主義に傾倒しはじめた人は上のようなことを言うかもしれない。

そしてこれは限りなく正解に近く、悲観的です。それもまたさようなら。

 

 わたしたちが「さようなら」をするときというのは、大抵の場合は特定の個人に対してであります。

大勢に向けて「さようなら」というのは実際不可能なものでありますし、多くの人がそうしているように「さようなら」の断絶の側面にばかり着目しているようでは利己的だと言わざるを得ません。

ただ、あなたがわたしのように非常な運の持ち主であるか、もしくは聡明な頭脳を活かしてこのプロセスを実験せんとするのであれば有望です。

 

 「さようなら」を普遍的なところから掘り下げていけば、まずは恋愛を避けては通れません。

一度きりの恋は人の数だけ存在しますが、永遠に一途の恋はそうそうない。

初めて恋に落ちた相手とそのまま婚約し生涯を終えるまで添い遂げる、というのは私の知るところの文芸の世界にしか成立していません。とりわけ現代では。

もちろん現実にもそういった史実は存在するのでしょうが、私も含めて人は複数回の恋をするものです。

その節目には幾度となく「別れ」があり、場合によっては「さようなら」以上という事態も起こりえるわけでありますが、まず「別れ」と「さようなら」の違いについて考えてみたいと思います。

 

 個人的には「別れ」とは「さようなら」を最小にとどめたものであると認識しています。

現代でよく用いられる「別れ文句」で言えば、「友達に戻ろう」とか、「違う形でお互いを支え合おう」とかがありますね。

これはお互いを視野に入れつつ、なおかつ会合の余地を与え、干渉しあえる距離に置きつづけるためです。

「恋人」という間合いはちょっと息苦しいから、友達でいる。

そうすれば毎週末のデートプランを捻りだしたり、熱中している趣味をあきらめたり、相手や自分の両親から婚約を急かされる心配だってありません。

友達でさえいれば、人恋しいときにはちょっとした時間に会えるし、熱中している趣味にも精が出て、両親も「またいい人が現れるよ」と態度を軟化させる。

ただし「別れ」というのは時間のいたずらによって引き起こされるものですから、その期間もまた時間のいたずらによって引き戻されるのです。

これについては細かく説明する必要はないでしょう。私たちの身の回りのカップルが何度も繰り返すプロセスです。

上のことを踏まえると「別れ」とは交際の延長線でしかない、ということが証明できませんか?

いつでも会って、いつでも交わえるのですから。

 恋人という建前がなくなったのです。

我々は恋人関係を成立させた瞬間から恋人関係を目指します。

ひとまず休憩として友人関係という平行線へと着地するという算段であります。

ですから恋人がうんざりした様子で「別れよう」と言ったのではないなら、焦らずに「ひとまず休戦だな」と受け入れるのが賢明なのでしょう。

わたしは出来ません、でしたけれど。

 

 では「さようなら」とは如何なるものでしょうか?

「別れ」が最小であるなら、「さようなら」が最大かというと違います。

「さようなら」を行使しても完全な絶縁には至りません。

完全な絶縁に至り得る手段については文末でご紹介したいと思います。

 私たちのコミュニケーションにはいくつか手段があります。

文字や表情、身振り手振りなどによる視覚的なもの。

料理などを振る舞い相手の要望に答えたりそれを読み取る味覚的なもの。

相手のにおいで性対象を判断する嗅覚的なもの。

助けたり傷つけたりする触覚的なもの。

意思疎通をフリースタイルに行う聴覚的なもの。

以上、一般的には「五感」と呼ばれる、視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚によって我々のコミュニケーションが成り立っていると仮定します。

我々はどこかへ赴き、見て、味わい、嗅ぎ、触り、聴く。

ある人物に自身の欲求と合致するものを見出したら、自身が相手に提供できる五感をアピールする。

そして相手もこちらに合致するものを見出せば、状況が悪くない限りはカップル成立となり、ふたりは恋人関係を目指すのです。

ここでは「思想」というものが抜け落ちた状態で話を進めますが、ひとまずは生物的な側面から掘り下げていきましょう。

 さて、カップルが成立するまでのプロセスを「五感」を用いて書き連ねてまいりましたが、ここで二人は岐路に立たされます。

どうやら仕事が忙しいとか、相手の性癖が嫌だとか、生活に希望が持てないとか、時間のいたずらによって終わりが近づいてきました。

残念なことにこのケースでは女性が男性にはもう会いたくないようです。

けれども彼とのテキストメッセージは他の誰よりも正直な話ができるし、文章だけなら仕事の合間でも交流できそうです。

一方で、彼は彼女ともっとセックスがしたいし、生活を共にしたいとも考えていました。

二人の水掛け論は沼地を作りそうな勢いでありましたが、次第に彼の涙ぐましい思いやりが彼女の意見を聞き入れました。

女性はあまりにも自分が一方的な気がしてきたので「季節に一度は会う」という約束を男性に取り付け、二人は「お別れ」しました。

 

 しばらく経って男性側からこう連絡が入りました、

「さようなら」

彼女は何か不吉なものを感じながらも、多忙であったので動けず、しばらくは彼の安否を想像しました。

数か月後に女性が風のうわさで聞きつけた情報によると、彼は女性とのテキストメッセージだけの交流が嫌になったのだというのです。

なぜ嫌になったかというと、テキストメッセージでの交流には彼女との交流や生活、セックスなどが結びついて彼から離れないまま、その欲求ばかりが膨れ上がるという事態を迎えていたからです。

ですから彼は「さようなら」と言って、唯一残されたテキストの手段すらも絶った。

しばらくは断絶による苦しみが続きましたが、これは結果的に彼を救いました。

彼には新しい恋人ができたようです。

 

 上はよくある筋書きです。

閉ざされた五感のいずれかが膨れ上がる欲求に耐えきれずに一切を絶つ。

遠距離恋愛でも、生活圏内の恋愛であってもよくあることです。

もちろん、これが起こり得ないケースもあります。

そもそも双方のどちらかが恋愛感情を抱いていなかったか、男性側がポジティブ思考によってこの関係を楽しみ、なおかつ自身の出会いに専念できる人格の持ち主であった場合です。

しかし、これは生来の気質であり解決策としてポジティブな思考を擦り付けることは賢明ではありません。

だから「さようなら」という手段があるのです。

 

 「さようなら」とは五感に蓋をする行為です。

目を閉じ(隠す)。

口を背け(固める)。

息を止め(塞ぐ)。

手をしまい(縛る)。

耳をかさない(詰める)。

 

 「さようなら」のあとには二人の場所は針の穴ほどのスペースしかありません。

風のうわさだったり、センチメンタルな思い出が通る穴しかないのです。

ですが、針の穴だって立派な穴です。

ここに「さようなら」という言葉が絶縁に至らしめる効力を持たないことを証明できます。

我々は動物的な五感の他に「記憶する」「思考する」「想像する」などの第六感を備えました。

「さようなら」によって物理的な手段は隔たれたとしても、精神的な手段は残されているのです。

もしも、あなたが「さようなら」をした上で誰かに接触を試みるのであれば六感を用いてみましょう。

これは神秘などではなく、現実的に行えることです。

ただ、問題はどの色のどの糸を針の穴に通すのか、ということ。

その糸さえ見つかれば、あなたは「さようなら」の先から相手との関係を保つことができましょう。

匿名で、しかしあなただと分かる手紙を送りつづける。

一方的ですのでほどほどに。左様なら。

 

 もうお気づきになられたかもしれませんが、完全な絶縁に至り得る方法について述べたいと思います。

六感を塞ぐのです。

とはいえ、これも時間のいたずらによっていずれ生じるのですが、ここで紹介するのは即効性のあるものです。

「さようなら」という五感用の蓋の上に、さらに蓋をするのです。

蓋をしているのを見ないようにする。墓標のない土葬です。

わたしはある女性に言いました。

「この狭い世の中どこかで会うかもしれないけれど、その時は他人のフリをしましょう」

 

確かに埋まって、強固です。

けれど、光が差すことがありますから、わたしもろとも焼けてしまうまでは気が抜けません。