下の名前で呼ばれるということ
ホシノさん、と呼ばれることが多い。
わたしの本当の名前は「アカリ」と、3文字ではなく、4文字。
本名は非常に呼び難いのだ。
「ホシノ」と呼び捨てるほうが、早いし、何せ「ホシノ」という苗字は著名人にインパクトのある人たちが多いおかげで、初対面の人でも記憶してもらいやすい。
これは喜ばしいことだ。
わたし自身、人の名前を覚えられない性質なので、初対面の一発で苗字だけでも覚えてもらえるというのは、とても良いことだと思う。
しかし、故に下の名前で呼んでもらえることは少ない。
とはいっても、親族の間ではいつも下の名前で呼んでもらっている。
近親者以外に下の名前で呼ばれることが少ないのだ。
すなわち、下の名前で人を呼ぶということは、片足だけでも近親的な間合いに足を踏み入れたことになる。
それに不快感を覚える場面もあれば、何とも言えない嬉しい気持ちになることもある。
わたしは下の名前で呼ばれると、誰からでもなく嬉しくなるものだが(好きな相手からだとさらに嬉しい)、他の人たちなどには『馴れ馴れしい』などといった印象を与える場合もあるらしい。
では、一般的な下の名前で呼ばれると嬉しいという場面はどのくらいあるだろう。
例えば、わたしが今までお付き合いしてきた女性のほとんどが、初めから(好意)、もしくは交際後から下の名前でわたしの名前を呼ぶことを好んだし、また、自分の名前も下呼びするようにリクエストしてきた(ほとんど全員)。
名前の下呼びというのは、男女の交際において、このような、ある一種の特別な傾向があるらしい。
特に女性はそういうことに敏感なように思う。
わたしは女性ではないけれど、最近になって元恋人たちが何故「名前の下呼び」を要求してきたのかが、わかるようになった。
この『単純に嬉しい』の正体は、その相手との個人的な関係における「アイデンティティの確立」であると思う。
名前の下呼び、というのはそれをより明確に、かつ常習的にできるものだ。
こんなに優れたことはないと思う。
名前を呼ぶだけで、自分たちの親密度を再確認できるのだ。
だからといって、片っ端から出会った異性を下の名前で呼ぶのは無謀。
前記の通り、わたしのような人懐っこい性格の人間以外には、とりわけ警戒されるだろう。
日本ではそれが顕著だ。
とはいえ、わたしは人を下呼びすることが多い(さん付けはするが)。
単純に苗字が覚えられないからだ。
事実、元恋人の苗字を忘れてしまっていることが多いのは、なにも私だけじゃないハズ。
この事実に気が付いたのは、またまたSNSのやりとりである。
コミュニケーション障害ならぬ、コミュニティー障害(集団行動や、その関係の維持に苦心すること)を患っているわたしは、こういう電波の国でいつも会話を楽しんできた節がある。
相手は友達の友達だったり、元恋人の友達だったり(解消済みなのに、何故かこっぴどく怒られた)、外国人だったり、まったく顔も知らない人たちだ。
そして、下呼びの特性に気づかせてくれたのは、まったく顔の知らない人だった。
当時、その人はわたしの個人的なことを何一つ知らなかったのだけど、なぜか下の名前で呼ばれた時、わたしは感極まってしまったのだ(ホシノアカリ以前の本名)。
正直、泣いた。
あれ、と思った。
そのときのわたしがややブルーな感傷に浸っていたのもあるけれど、顔も知らない相手に下呼びされるのがこんなに効くとは思わなかった。
寝ても覚めても感情が込みあがって、その人に告白してしまったほどだ(愛ではない。感情が抑えられない、といった趣旨の告白)。
嬉しかった。
なぜこんなに嬉しいのか、わからなかった。
紛れもなく、わたしが「個人」を見失っていたからだ。