「二十歳になる年・春」
最近の自分はというと、ひどく湿っぽい。
そして、そういう時間は気が付けば蒸発している水たまりのような具合で過ぎていく。
そういう日々を過ごしている。
あさ起床と共に、まだ顔さえ見ない恋人を想像して、抱き寄せる。
薄い肩の骨を感じながら、吐息を生み出し、自分の手に接吻する。
こんなことで朝の一時間が蒸発する。
習慣的なオナニーを含めると、二時間を朝に溶かす。
関節痛がすると同時に、酷いとは言わないが、妙に現実めいた空間に自分がいることに気が付き、起きなくては、と思う。
起きる。
一文字で現してみたが、この行動一つにしても、裏返った虫程度の努力があるのだ。
散らかったキッチンを見ると、母と顔を合わせたときと同じ気分になる。
ある意味、母自体より、散らかったキッチンのほうが、自分に母を思わせるようだ。
コンロには自分が作った、傷みかけの味噌汁とか、カレーがあって、冷凍庫に飯があればレンジで解凍して、それらと一緒に食べる。
無ければ、カレーや味噌汁を白湯と常温水で流し込む。
そういう朝食。
キッチンをさらに散らかしたところで、母が帰宅する。
小さいお櫃に、炊いてきた一合半程度の飯をよこしたり、なんども苦手だと教えたはずの甘い菓子パンなんかを机の上に袋入りのまま、ぶちまけていく。
もはや、朝の挨拶は交わさない。
代わりにその日の予定などを、意味もなく尋ねる。
そこには何の嫌味もない。
むしろ愛想がいいくらいだ。
しかし、母が好きか、とか、仲がいいか、とか聞かれると、間違いなく否定する。
母も否定はしないだろうが、わからない、などと言うだろう。
彼女はどんな質問にもそう答えるのだから。
足元を飼い猫がワンワンと鳴きながら練り歩く。
かまって欲しいのと、飯が欲しいのと、二つの意。
母はまったく飯をやる気配はみせない。
足元に居られるのを鬱陶しそうにもしない。
たまに、うるさい、などと言うけれど、それを解決するために飯をやったりはしない。
彼女の支度が終わり、外出する直前になって、ようやく与える。
こんな風景をみていると、自分が飯を与えるのも少なくない。
朝の餌やりは母の担当で、夜は自分。
それもほとんど守られてはいない。
この好きでもない菓子パンや、ガラクタで溢れたテーブルと同じだ。
ビニール袋をかぶせたままような日常。