ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

インナーブルー

インナーブルー

 

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 黄色の服を着るようになったのは光を感じるから。

陽気なイエローにわたしは少しばかりのインクを落としてそれを暗く彩る。

勝手ながら『ロジックイエロー』と命名して、気に入っている。

イエローには思考が開けるような視覚的作用があり、わたしはそれを身に纏いたいと考えたのだ。

ただそれは皮膚にあたる部分であり、あらゆる動物が皮を纏っている下に肉と臓腑を隠しているように、我々も新しい皮には新しい肉が必要なのだ。

わたしはそこにブルーをチョイスした。

一般的には知的とか、あるいはセンチメンタルな意味合いを持つ色である。

やはりインナーにもインクを落として暗く彩る。紺。

いと、あまい。 よく出来た漢字である。

わたしは思考のイエローの下に少しばかりセンチメンタルな紺を内包する。

これでしっくりくる。まるで自分を着ているようだ。

 

 

 

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 日常の前にはどうやら無力であることをわたしは思い知らされる。

わたしに思い知らせる時間も日常にあるのだから、どうしようもない。

そういった時間はわたしには無きに等しく、十四歳の春から思考が日常に希釈されていくのを恐れ、避けた。

結果、時間はわたしに純度の高いインクを買い与えたが、インクは外側に落とすものであって、決して内側には落ちない。内側から生成されて、記録に用いられるのみである。

わたしは自身のインクが日常に用いられることを恐れる。それはあまりに個人的行為であり、容易くは金にはならず、容易く自身を救う。

世界に憑依された状態でインクを落としたい。世間ではなく、世界である。

けれどもわたしは肉であり、表には皮があり、その事実を忘れたとて内臓が決まって知らせるのだ。

そうざんしょ。そうざんしょ。

「水天のうつろい」ぐぐれぐぐれ。

 

 

 

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 写実とはなんたるか。

その実現はアカデミックなところに依る技法では実現できぬ。

わたしはそういうことを試みている。

むかぁしむかしから。

ローファイを聴いていた頃まで遡らされて、遡らせてくれた人へ忘却の音を聞かせた。

彼女は好きと言ったけれど、忘れるのだろう。考えすぎかな。

忘却は恐れるだけで事足りる。

わたしは自身に向けられる恐怖を想像するのをやめた。献血の針の先でやめた。

看護師にそれを伝えた。

「やめた」とか「変わった」というのは、そう成りきれていない証拠の最たるものでありますから、わたしは他人の恐怖を想像することを通して自らの恐怖を想像しているのでしょう。

 

 

 

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 150㎞のシティサイクル旅も日常である夜勤の五日間には勝てずじまいで、ここでもわたしは一種の諦観めいた感情を抱かざるを得ない。

わたしの非日常的な日常は日常のなかにあったのだから。

旅の先で食わせてもらった小松菜とお揚げさんが教えてくれた混迷の味。

そこには居られないという前提。

黄色い服。

インナーブルーな日常の臓腑。

写実の想像。

150㎞が知らせる五日間。

 

太陽は青くて、月はうそばかりを写す。

わたしもそれを真似る。

思い出しづらくなったこと

「思い出しづらくなったこと」

 

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 夢や希望などといったものを思い出すには、過去へ立ち返る必要がある。

自身の生い立ち、成してきたこと、出会った人々。

それらを思い出しては、それらを「無駄にはできない」と思い直す。

 

 

「It can’t be for nothing」

「無駄にはできない」

 これはノーティードッグ社が制作する「The Last Of Us」というサバイバルホラーゲームに出てくる台詞の一つ。

物語の終盤、キーパーソンであり、主人公のジョエルと多くの時間を共にする少女「エリー」が放った言葉である。

二人はひょんなことからパンデミックによって崩壊したアメリカを渡り歩くことになり、ジョエルは「エリーをファイアフライ(革命組織)へと運ぶ」という仕事。エリーは「自身の命と引き換えに世界を救う」という使命の下に旅を共にする。

四季を越え、さまざまな人々と出会い、多くの死を看取る二人。

いつしか「運び屋」と「荷物」の関係であった少女と老人は互いに利害関係を越えた、親子のような認識になっていく(とくにジョエルは)。

 

 ジョエルは二十年前に起こったパンデミックで娘を失っており、その後は「大切なものを持った人間から死んでいく」という信条のもと、奪い合う世界で生きてきた。

https://www.youtube.com/watch?v=ZAhDUTtVZFo

 

 

 エリーは生まれた頃より母親を知らず、政府の兵士として育てられる。

あるとき、親友のライリーという少女と「冒険」していた際に感染者に襲われ、二人とも戦闘の末に噛みつかれ感染する。

https://www.youtube.com/watch?v=B-M9N-2fWzY

 

 

 

怒り、泣き「これからどうすればいいの」というエリーに、親友のライリーは言う

 

「わたしが思いつく方法は二つ」

「一つ目、さっさとおさらばしちゃう(拳銃をチラつかせながら)。あっというまに終わるよ」

 

(エリーは沈黙するも、次第に泣き止む)

(ライリー、拳銃を地面に置く)

 

「でもあたしは好きじゃない」

 

「二つ目」

「戦うの」

 

エリー、「戦うって何と?」

「あいつらみたいになっちゃうのに」

 

ライリーは続ける

 

「死にそうになったことなんて何度もあった」

「明日までに死ぬ可能性だって無数にある」

「でも戦うの」

「すこしでも長く一緒にいるために」

「それが二分でも」

「二日でも」

「絶対あきらめない」

 

ライリー、エリーを見つめて言う

「あたしはあきらめないよ」

 

「だからさ」

「待ってればいいじゃない」

「どうせ最後は」

「みんな一緒におかしくなっちゃうんだから」

 

エリー「他に方法はないの?」

 

ライリー「ごめんね」

 

 

唇を嚙み締めるエリーに、ライリーが言う

「行こう」

「こっから出るんだ」

 

エリー、少し泣いたあとに立ち上がったライリーを見つめる。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=QGTCbvqmOvc

(引用シーンを見るには2分50秒から再生してください)

 

 最終的にライリーは死に、エリーは生き残ったことから世界を崩壊させたウイルスへの「抗体」を持つことが判明する。

 

 

 こういった過去を持つエリーとジョエルは、旅のなかでも心を通わせた人々を失い続ける。

物語開始時点で既に政府の猛攻を受けているファイアフライは壊滅状態となっており、ジョエルとエリーは旅の最中、彼らの死体ばかりを発見することとなる。

 

本拠地に行っても、彼らはまた死んでいるかもしれない。

自分たちだって何度も死にかけた。ジョエルはこのまま引き返すことも提案するが、エリーは言う。

 

「やっとここまできた」

「これまでのすべてを」

「ムダにはできないよ」

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=otAZA4QPdaM

 

 

 

―使命感

 ライリーを始め、多くの人たちの死を乗り越えて、「あきらめなかった」エリー。

その彼女が自身の命を「あきらめている」事実をジョエルはまだ知らない。

ジョエルが事実に気づいたとき、娘を失った彼がどういった決断をするのかは是非ともあなた自身で目撃してほしいと思う。

 

 保たれた文明に生きる私たちは、いつも何かを見失いがちだ。

そこでは人々が手を取り合い、仕事を分担することで、何でも実現ができてしまう(するかどうかは別として)。

だからこそ、夢を持ち続け、それを糧に希望を絶やすことなく生活ができる。

しかし、夢を与えられすぎた希望は少しづつ肥えていき。それは次第に要らない夢までもを欲するようになる。

夢を喰らい続けるうちに、自身のなかで肥大する希望。

人は自分の「希望」が、本来どのような形であったかを忘れてしまう。

現代、「The Last Of Us」のように世界の文明が崩壊することは滅多になくとも、個人の文明が崩壊することはたまに耳にする。

人はその「どん底」において、夢をあきらめるという合理化の下「希望のダイエット」を行い、自身の「希望」の本来の形を思い出す。

夢への飢餓感に耐えられずに自殺してしまう人々もいるように、このダイエットは絶望すらも伴う苦痛だ。

しかし、「どん底」において、あきらめなかった人々が、いわゆる「成功」、あるいは自分なりの幸福に辿り着くエピソードがある、というのは、彼らが「希望のダイエット」に成功したからに他ならない。

過剰に夢という「希望」を与えられる昨今では、「ダイエット」という引き算が必要不可欠になのだろう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

 

 

 

 

―楽しいと思えることがない

 わたしは非常に希望の形を見失いやすい性質である。

「三日坊主」という言葉があるように、わたしの「希望」はたった数日でその形を変容させる。

多くの人々が患うこの「三日坊主」の原因も、希望の形を見失うからに他ならないのだろう。

 人はまず、一つだけの使命感をもって生まれる。

それは「生きる」ということ。

どうであれ、「生きる」ということである。

そして、年を取り、「生きる」ことが必然であると気づくころには、多くの人は周囲から受ける「愛」を使命感に変えて生きることとなる。

あとは人生の暇な時間を道楽として扱い、いかに愛する人たちと笑いながら過ごすかを目指し、生存する。

 ここで「多くの人」と表現したのは、人々の「愛」を受けたり、それに答え、尽くすことに懐疑的、もしくはそれだけでは生きられない人々がいるからだ。

これは生い立ちであったり、個人の経験によって形成される習性のようなもので、大抵の場合、彼らは多くの人が必然的に形成するはずの「使命感」を受け取れなかった事実や自覚から、アイデンティティの欠如、および独自の死生観に直面し、「希望の形」やその糧となる「夢」の入手ルートを自ら形成するという仕事を負うこととなる。

その困難さ、そしてその過程で常に夢を欲し続ける飢餓の苦しみに希死念慮を抱いたり、感情的になった挙句、反社会的な行動を取ることもしばしばある。

わたしもその内の一人だ。

 

 我々が「希望」めいたものを思い出そうとするときに、まず行おうとするのは「足し算」である。

それは応急処置であり、本格的な手術には成り得ない。

挫折した「希望」を再び形成するには、その過去を切り開いて、真摯に向き合う必要がある。それは複雑骨折の手術の様に、深刻であるほど困難を極める。

だが、挫折した「希望」の破片を取り除くまでは、再び歩き出すことはおろか、新しい骨格を形成することもままならない。

「夢」の摂取は、「希望」の手術の後でいい。

手術後の「夢」は病院食のように味気ないかもしれない。

しかし、再び歩けるようになるころには、そのくらいの「夢」が自身に合っていること、自身の「希望」にはどういった「夢」が必要なのかについて分かるようになるだろう。

わらう太陽

 「わらう太陽」

 

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 休日の大半は布団の上で過ごす。

寝食や仕事すらも、布団の上という有様である。

常に片目に倦怠感た痛みを覚えているのは十六歳の頃からで、ともすれば、その頃よりわたしは布団の上でほとんどの時間を過ごすようになったわけだ。

 

(両目を閉じて、しばし瞑想)

 

 

 いけない、このままでは眠り落ちてしまう。

本日もわたしは二度、三度と、同じような状況において眠りに落ちてしまった。

布団の横に五つ、並べられた正方形の本棚たちの一角で、先日購入したインド香が煙を湧かしている。

その香りが私の鼻に触れるたびに、どこか懐かしい感触をもって、寝かしつけられそうになるのだ。

懐かしさは既に思い出すことはできず、五つの本棚の内、三つ目、中央に置かれた花瓶に生けられたフリージアが萎んでいる。

萎む前は、どんな形であったかすら思い出せない。

ただ、その花の匂いばかりを思い出す。

 こんな作文をしてしまうのは、きっと今が夜だからであり、そしてこれを夜のせいにしてしまうような思考が生まれるのもまた、きっと今が夜だからなのだ。

おもしろくない。

ロマンはいつだって退屈だ。

わたしはいつだって、そう、自分がロマンの真っ只中にある瞬間でさえ。

 

自粛は救いではない

 緊急事態宣言が発令されてから、二日後の朝。

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颯佑、夜勤の仕事には、今日も行かなかった。

最早咎められることもなくなった、無断欠勤である。

 要因はなんでもなく。

本当になんでもないものだ。

十代の時より抱えている偏頭痛が起きたわけでもないし、風邪とか、ましてやコロナウイルスによる症状が出たわけでもない。

ただ、ぼんやりとした不安が、颯佑の全身にしがみついて離れなかった。

そして颯佑のほうも、いままでそうした不安とは仲良くやってきたから、無理に引き離すようなことは考えなかったばかりか、より一層、自身に染み込ませるように深い惰眠へと落ちた。

 

「こういう状況下において、人の本性が現れる」

二日前にこのTweetを見た。

二日間で複数人の本性を見た。

なにより、自分の本性を見た。

颯佑は、自分が弱い人間であることを思い出した。

 

決別したと考えていたトラウマは、自分に無感心になっただけ。

乗り越えたと考えていた失恋は、自分に無関心になっただけ。

自分は変わったと考えていたのは、自分が無感心になっただけ。

 

 颯佑はいつからか、「自分が他人にどう思われいるのか」考えることがなくなった。

これを「良いことだ」と言う人もいる。

しかし、実際は外に出て人混みのなかに居ると動悸がするし、叱られるとその場から動けなくなったり、思考が停止し、涙が止まらなくなったりもする。

こういったことを、颯佑は「どうでもいい」と言って跳ねのけてきた。

人混みのなかで動機を覚えるのなら、引きこもればいいことだし、叱られて動けなくなったりするのも単なるショックだ。

 

「他人はそんなこと気にしない」

「誰も助けてはくれない」

 

 颯佑の「どうでもいい」には、この二言が、コードとして機能していた。

ニュースでは「どこどこの大学のどこどこのサークルが集団感染した」という集団意識を煽る情報を報道している。

皆がそれに乗じて批判し、議論する。

颯佑もまた、今日の自粛ムードに囚われて一週間後に恋人と会う予定を見送らざるを得なくなった。

それがまた彼の不安の種の一つでもあったが、なによりの影は「誰も助けてくれない」ということなのだ。

やはり、そういうことなのだ。

こういうことなのだ。

 

わたしたちは買い物に行ける。

恋人にも会いに行ける。

もしかしたら給料の先払いを申請することで、奮発したバーベキューを開けるかもしれない。

自粛ムードによって自宅で鬱屈している友人も招ける。

皆、真面目に自粛してきたのだから、その面子だけの集まりであれば集団感染などありえないのだ。

しかし、わたしたちは「自粛」する。

または、わたしたちの周囲が「粛清」する。

颯佑も恋人と「自粛」を行った。

感染の懸念は減ったことだし、日本国民たる責任を果たしているのだ。

 では、何故不安か?

 

それは「誰も助けてくれない」からだ。

わたしは「誰も助けてくれない」状況下に置かれているのだ。

ただ、「自粛」と「粛清」の二つの手段だけが残され、その前後には何の保護も救いすらも残されていない。

 戦時中の日本を描く「蛍の墓」では、終盤に食料難に陥った兄と妹が描かれ、兄が夜な夜な農家の畑に侵入し、畑で栽培されているトウモロコシを盗もうとするが、農夫と思わしき男に捕まり、顔が原型を留めないほどに殴打される。

そして妹は病と餓えによって死に、兄もまた三宮駅構内にて死亡する。

 

「欲しがりません、勝つまでは」の精神によって、国から配給される食料と物資で生活していた国民たち。

物質的生活水準で言えば、現在よりも目に見えて深刻であり、生命が危ぶまれる。

そのなかで彼らが力強く生存したのは、天皇への忠誠心や信仰心かー

いずれにせよ、昨今の日本人の大多数には天皇およびその他の数多の神々への忠誠や信仰心すらも残っていない。

食料も大量生産が可能になった現代では戦時中に比べ餓える確率は格段に低い。

しかし、保証はない。

買い溜めをする輩が現れ、それを制する日々に明け暮れる販売員の精神状態が悪化するという話は飽きるほど耳に入ってくる。

物があっても、売る者がいなくなっては、現代の水準を循環させることもままならない。

ましてや、「自粛」に「粛清」のムード。戦後からの「無信仰」に「無宗教」が続くこの国では、精神を蝕まれるのそう難しくないことであるし、たとえこれらの要因がなくとも「自殺大国」として名高いのだから。

政府は給付金の内容と条件を掲示したが、到底多くの人たちが受け取れるようなものではなく。「緊急事態宣言」においても、単なる「要請」という圧力だ。

「集団意識」を煽る手法は戦時中と変わらぬばかりか、戦時中よりもひどい状況にある。

 

 

 

 颯佑には救われなかった過去があった。

その過去を救われようとして失った恋があった。

そして自分すらも救われなかった過去を救うのをやめた。

今回の「自粛」の環境下において、「自分すら自分を救えない」という「トラウマ」を思いだした。

それがわたしの本性であった。

「誰も助けてくれない」。

「だからまずは自分から誰かを助けてみよう」

颯佑という名前には「人を助け、人に助けられる」という意味が込められているらしい。

この名を彼に与えた人物が最初に颯佑を裏切った者であったが、これはまた別のところで書こう。

そして、「颯佑」の名を、実行している人物がいる。

それは彼と同じ「星野」の名前を持つアーティストで、近年では知らない人はいないと思う。

彼は「うちで踊ろう」という曲をオンラインで配信した。

わたしを含め多くの人が救われたはずだ。

殺人的な文章ばかりを書くわたしが、星野源のように人が救えるかどうかは分からないが、救われる読み手がいることを願っている。

そして、救いは早めに行ったほうがいい。

救われなかった過去を救うことはできないのだから。

 

 

『LIVE』な音

『LIVE』な音

 

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コーヒーを淹れるためにIHヒーターにスイッチを入れた。

手巻き煙草をくわえつつこれを書いている。

昨日の夜勤には出ず、「体調不良」という曖昧な名目で休んだわたしは確かに不調であるものの、これを一種の「変調」とも捉えている。

 

(ケトルの沸騰音による執筆の中断)

 

 コーヒー豆に沸騰した少量の湯を注いだ。

このまま二分間、わたしの脇で蒸らす。

湯沸かしの仕事を終えたIHヒーターへ休ませる間もなく、浸水させておいたジャスミン米の入った炊飯鍋をセットし、スイッチを押す(IHヒーターの起動音が気だるく感じられた)。

 

(コーヒーの手動抽出による執筆の中断)

ジャスミン米の具合を確認するための離席)

 

ジャスミン米は日本の米より澱粉が少なく、粘り気がないからか、炊飯時の泡が立つことがほとんどない。

わたしが使用しているHARIOの「雪平」は、炊飯時の「泡」を基準に炊け具合を調整するため、現在の我が家の環境下においてジャスミン米は少々扱いにくい食材である。

そして、炊飯にかかる時間が非常に短い。

 

(IHヒーターのスイッチを切るための離席。かれこれⅠ時間働きづめの彼に訪れた休息)

 

恋人と飲み交わしたマグにコーヒーを注ぐ。

底のほうに、まだ二日前の二人の飲み残しがあったので、それを飲みほした。

再び、手巻き煙草を咥える。

 

 

 

 非常に「LIVE」感あふれる文章をお届けした。

わたしは無事、新生活である「一人暮らし」を始め、恋人もできた。

そんな自分の現在の暮らしは変調に変調を重ねた時間だと心得ている。

ついていくのに必死であったり、追い付いては「もっとこの時間が続けばいいのに」などという、おぼつかない感受性を持ってして生を活きたものと実感している。

           『もっと生きていると感じたい』

 この衝動から生み出された一人暮らしの変調は、わたしに望み通りの変化を与えてくれた。

 

(コーヒーによる便意。トイレへ行くための離席)

 

わたしは生活においては「音」を注視する。

隣人がカギの施錠を確認する音。宅配業者が重たげに階段を踏みしめる音。

友人や恋人が軽やかに、時には名残惜しそうに階段を下りる音。

炊飯の音、コーヒードリッパーや浄水器が抽出物を注ぐ音。

数秒前までは用を足していたトイレが排水のために働く音。

 

わたしは「時間が止まる音」を知っているが、これが聞こえるのは、恐らく、次の変調を起こすときなのだろう。

それまでは、この追いつ追われつな生活に肌を晒したいと思う。

限界が近い

限界が近い

 

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 とてもそう感じる。感じるだけではなく、予測的に考えてみてもやはり私の精神状態は限界に近い。

あまりにも日常的なことに気を取られすぎていて、まったく創造的なことに集中できていない。わたしは現実の世界に多くの幸福は望めず(一切ではない)、いまの日常的かつ雑用的雑務に囚われ続けることによってダメになる。

問題を抽出しようにも、それら自体が多勢に無勢といった具合で、結局はわたしの思考原の草を食む群れがどこかへ過ぎ去ってくれるのを待つばかりなのだ。

一応、岐路はある。だが、そこへたどり着くまであと、二週間だ。この時間は目には短く、肌には長い。人は目に頼るものだが、肌が一番鋭敏に時を感知している。

 本来の自分でいられないことほど人を揺さぶる事象はない。

わたしは芸術家ではないが(人はそう呼んでくれることもあるかもしれないが)、記録者であると確信している。分析と解析、内向と外向、これらを司る者であると、己を信じている。写実のなかにシュールを見つけ、人々に掲示する。それらがどんな光景を持っているのか、わたしには分からない。だからこそその光景を作りあげるのだ。

 世にはバグだらけで、それらのなかには案外おもしろいものもある。わたしは個人間で生まれる矛盾についてはとことん嫌悪するが、人間社会全体で引き起こされる矛盾には、関心と愛情すらも寄せているのだ。それらに胸痛められることもあれば、首を傾げるときもある。だが、それらも人が生まれる前の陣痛なのだ。わたしたちは痛みの最中にある。

わたしも、もう少しすれば・・・あと二週間すれば生まれるのだろうか。

 

ゲイン、それすなわち顔

ゲイン

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 新しいワイヤレスキーボードを購入した。
ロジクール社のコンパクトサイズの製品で、後にiPadを購入する予定があるのと、現在執筆用に使用しているノートパソコンの「I」が強く押し込まなければ反応しないという症状を見せたための買い物だった。

 最近は出費が多い。非常に多い。
前筆のワイヤレスキーボードのほかに、ソニー社のワイヤレスヘッドホンまで購入した。
おかげで執筆環境はとても快適になったが、お財布のなかは寂しい現状である。
それでも、だ。
今回の有意義な買い物が負担に思えてしまうとはどういうことだろう。
間違いなく、今回の買い物はわたしの活動に良好な影響を与えたのだ。
他にわたしは何にお金を使えばよかったのだろうか?
 ここでまず、わたしの一か月あたりの出費についてお話せねばならない。
わたしは、知人たちにはよく言っているように、ひと月当たりに書籍を大量に購入する。
具体的な冊数は20~30冊といったところ。
自虐気味に「毎月が入学式だよ」なんて漏らしてはいるが、なんとなく気に入っている。
内容は古典文学から大衆文学。エッセイ、辞書、学術書、エロ本に至るまで多岐にわたる。
それら一冊あたりの値段はせいぜい500円~2,000円の間で、お財布にやさしく設定されているが、束になれば、本は厚みをまして、支払う札束の枚数も増えていく。
結局、わたしは月20,000円~30,000円を書籍への出費として設定している。
 もちろん、お安く買う工夫はしている。
ブックオフオンラインや、Kindle unlimitedを利用したり、オンラインで購入できる書籍の冊数や価格に自身で制限を設け、残り金額を握りしめて、引きこもり根性をかなぐり捨てて書店に繰り出すということもしている。
読まずに本棚に眠っている本も今までいくらかあった。
それでも、紙の本を買うのをやめられない。
電子書籍の活動をしていながら言うことではないかもしれないが、「紙の本がなくなる」などと言っている方々は安心してほしい。わたしやあなた方が生きている間はとうてい起こり得ないことだ。わたしたちのが死ぬ頃に紙の本が高騰するくらいが関の山である。
読書形態は電子書籍の進化によって移り変わりつつあるし、いずれ読書文化の主権すらも握るやもしれない。けれども、わたしたちに肌があるかぎり、紙とそこに印刷される黒い文字たちはいなくならない。
 わたしは、書籍に触れるのが好きだ。
綺麗であれば自ずと手に取りたくなるし、黄ばんだりして汚くなっていたらそこに至るまでの過程を想像してみたりする。
これは人間と接するときにも当てはまる。
わたしたちは容姿端麗な人物を見ると目を離せなくなるし、背の曲がった老人を見ると、彼らが若かったころを想像してみたりする。
本は一時的に生命活動を停止させられた人間の顔が横たわっているような存在だ。
それらは生ける私たちの指によって動力を得て、無音の言葉を話し始める。
私はいろんな人に会いたいのだ。人にも、死人にも、変人にも、殺人鬼にも、文豪にも。
本や絵は概念を遡れる、アナログなタイムマシンだとも言えないだろうか。
音楽はその点においてハイブリットな文化である。

 さて、本に対する持論を語るのは良しとして、わたしの経済状況は把握していただけただろうか?
今度の出費ではこの素敵な出会いをひとまず脇に置いて、衣類や靴などに投じることにする。
わたしたちはいつまでも過去に生きていられない。
わたしたちは永遠には生きられないから。