ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

自粛は救いではない

 緊急事態宣言が発令されてから、二日後の朝。

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颯佑、夜勤の仕事には、今日も行かなかった。

最早咎められることもなくなった、無断欠勤である。

 要因はなんでもなく。

本当になんでもないものだ。

十代の時より抱えている偏頭痛が起きたわけでもないし、風邪とか、ましてやコロナウイルスによる症状が出たわけでもない。

ただ、ぼんやりとした不安が、颯佑の全身にしがみついて離れなかった。

そして颯佑のほうも、いままでそうした不安とは仲良くやってきたから、無理に引き離すようなことは考えなかったばかりか、より一層、自身に染み込ませるように深い惰眠へと落ちた。

 

「こういう状況下において、人の本性が現れる」

二日前にこのTweetを見た。

二日間で複数人の本性を見た。

なにより、自分の本性を見た。

颯佑は、自分が弱い人間であることを思い出した。

 

決別したと考えていたトラウマは、自分に無感心になっただけ。

乗り越えたと考えていた失恋は、自分に無関心になっただけ。

自分は変わったと考えていたのは、自分が無感心になっただけ。

 

 颯佑はいつからか、「自分が他人にどう思われいるのか」考えることがなくなった。

これを「良いことだ」と言う人もいる。

しかし、実際は外に出て人混みのなかに居ると動悸がするし、叱られるとその場から動けなくなったり、思考が停止し、涙が止まらなくなったりもする。

こういったことを、颯佑は「どうでもいい」と言って跳ねのけてきた。

人混みのなかで動機を覚えるのなら、引きこもればいいことだし、叱られて動けなくなったりするのも単なるショックだ。

 

「他人はそんなこと気にしない」

「誰も助けてはくれない」

 

 颯佑の「どうでもいい」には、この二言が、コードとして機能していた。

ニュースでは「どこどこの大学のどこどこのサークルが集団感染した」という集団意識を煽る情報を報道している。

皆がそれに乗じて批判し、議論する。

颯佑もまた、今日の自粛ムードに囚われて一週間後に恋人と会う予定を見送らざるを得なくなった。

それがまた彼の不安の種の一つでもあったが、なによりの影は「誰も助けてくれない」ということなのだ。

やはり、そういうことなのだ。

こういうことなのだ。

 

わたしたちは買い物に行ける。

恋人にも会いに行ける。

もしかしたら給料の先払いを申請することで、奮発したバーベキューを開けるかもしれない。

自粛ムードによって自宅で鬱屈している友人も招ける。

皆、真面目に自粛してきたのだから、その面子だけの集まりであれば集団感染などありえないのだ。

しかし、わたしたちは「自粛」する。

または、わたしたちの周囲が「粛清」する。

颯佑も恋人と「自粛」を行った。

感染の懸念は減ったことだし、日本国民たる責任を果たしているのだ。

 では、何故不安か?

 

それは「誰も助けてくれない」からだ。

わたしは「誰も助けてくれない」状況下に置かれているのだ。

ただ、「自粛」と「粛清」の二つの手段だけが残され、その前後には何の保護も救いすらも残されていない。

 戦時中の日本を描く「蛍の墓」では、終盤に食料難に陥った兄と妹が描かれ、兄が夜な夜な農家の畑に侵入し、畑で栽培されているトウモロコシを盗もうとするが、農夫と思わしき男に捕まり、顔が原型を留めないほどに殴打される。

そして妹は病と餓えによって死に、兄もまた三宮駅構内にて死亡する。

 

「欲しがりません、勝つまでは」の精神によって、国から配給される食料と物資で生活していた国民たち。

物質的生活水準で言えば、現在よりも目に見えて深刻であり、生命が危ぶまれる。

そのなかで彼らが力強く生存したのは、天皇への忠誠心や信仰心かー

いずれにせよ、昨今の日本人の大多数には天皇およびその他の数多の神々への忠誠や信仰心すらも残っていない。

食料も大量生産が可能になった現代では戦時中に比べ餓える確率は格段に低い。

しかし、保証はない。

買い溜めをする輩が現れ、それを制する日々に明け暮れる販売員の精神状態が悪化するという話は飽きるほど耳に入ってくる。

物があっても、売る者がいなくなっては、現代の水準を循環させることもままならない。

ましてや、「自粛」に「粛清」のムード。戦後からの「無信仰」に「無宗教」が続くこの国では、精神を蝕まれるのそう難しくないことであるし、たとえこれらの要因がなくとも「自殺大国」として名高いのだから。

政府は給付金の内容と条件を掲示したが、到底多くの人たちが受け取れるようなものではなく。「緊急事態宣言」においても、単なる「要請」という圧力だ。

「集団意識」を煽る手法は戦時中と変わらぬばかりか、戦時中よりもひどい状況にある。

 

 

 

 颯佑には救われなかった過去があった。

その過去を救われようとして失った恋があった。

そして自分すらも救われなかった過去を救うのをやめた。

今回の「自粛」の環境下において、「自分すら自分を救えない」という「トラウマ」を思いだした。

それがわたしの本性であった。

「誰も助けてくれない」。

「だからまずは自分から誰かを助けてみよう」

颯佑という名前には「人を助け、人に助けられる」という意味が込められているらしい。

この名を彼に与えた人物が最初に颯佑を裏切った者であったが、これはまた別のところで書こう。

そして、「颯佑」の名を、実行している人物がいる。

それは彼と同じ「星野」の名前を持つアーティストで、近年では知らない人はいないと思う。

彼は「うちで踊ろう」という曲をオンラインで配信した。

わたしを含め多くの人が救われたはずだ。

殺人的な文章ばかりを書くわたしが、星野源のように人が救えるかどうかは分からないが、救われる読み手がいることを願っている。

そして、救いは早めに行ったほうがいい。

救われなかった過去を救うことはできないのだから。