ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

思い出しづらくなったこと

「思い出しづらくなったこと」

 

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 夢や希望などといったものを思い出すには、過去へ立ち返る必要がある。

自身の生い立ち、成してきたこと、出会った人々。

それらを思い出しては、それらを「無駄にはできない」と思い直す。

 

 

「It can’t be for nothing」

「無駄にはできない」

 これはノーティードッグ社が制作する「The Last Of Us」というサバイバルホラーゲームに出てくる台詞の一つ。

物語の終盤、キーパーソンであり、主人公のジョエルと多くの時間を共にする少女「エリー」が放った言葉である。

二人はひょんなことからパンデミックによって崩壊したアメリカを渡り歩くことになり、ジョエルは「エリーをファイアフライ(革命組織)へと運ぶ」という仕事。エリーは「自身の命と引き換えに世界を救う」という使命の下に旅を共にする。

四季を越え、さまざまな人々と出会い、多くの死を看取る二人。

いつしか「運び屋」と「荷物」の関係であった少女と老人は互いに利害関係を越えた、親子のような認識になっていく(とくにジョエルは)。

 

 ジョエルは二十年前に起こったパンデミックで娘を失っており、その後は「大切なものを持った人間から死んでいく」という信条のもと、奪い合う世界で生きてきた。

https://www.youtube.com/watch?v=ZAhDUTtVZFo

 

 

 エリーは生まれた頃より母親を知らず、政府の兵士として育てられる。

あるとき、親友のライリーという少女と「冒険」していた際に感染者に襲われ、二人とも戦闘の末に噛みつかれ感染する。

https://www.youtube.com/watch?v=B-M9N-2fWzY

 

 

 

怒り、泣き「これからどうすればいいの」というエリーに、親友のライリーは言う

 

「わたしが思いつく方法は二つ」

「一つ目、さっさとおさらばしちゃう(拳銃をチラつかせながら)。あっというまに終わるよ」

 

(エリーは沈黙するも、次第に泣き止む)

(ライリー、拳銃を地面に置く)

 

「でもあたしは好きじゃない」

 

「二つ目」

「戦うの」

 

エリー、「戦うって何と?」

「あいつらみたいになっちゃうのに」

 

ライリーは続ける

 

「死にそうになったことなんて何度もあった」

「明日までに死ぬ可能性だって無数にある」

「でも戦うの」

「すこしでも長く一緒にいるために」

「それが二分でも」

「二日でも」

「絶対あきらめない」

 

ライリー、エリーを見つめて言う

「あたしはあきらめないよ」

 

「だからさ」

「待ってればいいじゃない」

「どうせ最後は」

「みんな一緒におかしくなっちゃうんだから」

 

エリー「他に方法はないの?」

 

ライリー「ごめんね」

 

 

唇を嚙み締めるエリーに、ライリーが言う

「行こう」

「こっから出るんだ」

 

エリー、少し泣いたあとに立ち上がったライリーを見つめる。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=QGTCbvqmOvc

(引用シーンを見るには2分50秒から再生してください)

 

 最終的にライリーは死に、エリーは生き残ったことから世界を崩壊させたウイルスへの「抗体」を持つことが判明する。

 

 

 こういった過去を持つエリーとジョエルは、旅のなかでも心を通わせた人々を失い続ける。

物語開始時点で既に政府の猛攻を受けているファイアフライは壊滅状態となっており、ジョエルとエリーは旅の最中、彼らの死体ばかりを発見することとなる。

 

本拠地に行っても、彼らはまた死んでいるかもしれない。

自分たちだって何度も死にかけた。ジョエルはこのまま引き返すことも提案するが、エリーは言う。

 

「やっとここまできた」

「これまでのすべてを」

「ムダにはできないよ」

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=otAZA4QPdaM

 

 

 

―使命感

 ライリーを始め、多くの人たちの死を乗り越えて、「あきらめなかった」エリー。

その彼女が自身の命を「あきらめている」事実をジョエルはまだ知らない。

ジョエルが事実に気づいたとき、娘を失った彼がどういった決断をするのかは是非ともあなた自身で目撃してほしいと思う。

 

 保たれた文明に生きる私たちは、いつも何かを見失いがちだ。

そこでは人々が手を取り合い、仕事を分担することで、何でも実現ができてしまう(するかどうかは別として)。

だからこそ、夢を持ち続け、それを糧に希望を絶やすことなく生活ができる。

しかし、夢を与えられすぎた希望は少しづつ肥えていき。それは次第に要らない夢までもを欲するようになる。

夢を喰らい続けるうちに、自身のなかで肥大する希望。

人は自分の「希望」が、本来どのような形であったかを忘れてしまう。

現代、「The Last Of Us」のように世界の文明が崩壊することは滅多になくとも、個人の文明が崩壊することはたまに耳にする。

人はその「どん底」において、夢をあきらめるという合理化の下「希望のダイエット」を行い、自身の「希望」の本来の形を思い出す。

夢への飢餓感に耐えられずに自殺してしまう人々もいるように、このダイエットは絶望すらも伴う苦痛だ。

しかし、「どん底」において、あきらめなかった人々が、いわゆる「成功」、あるいは自分なりの幸福に辿り着くエピソードがある、というのは、彼らが「希望のダイエット」に成功したからに他ならない。

過剰に夢という「希望」を与えられる昨今では、「ダイエット」という引き算が必要不可欠になのだろう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

 

 

 

 

―楽しいと思えることがない

 わたしは非常に希望の形を見失いやすい性質である。

「三日坊主」という言葉があるように、わたしの「希望」はたった数日でその形を変容させる。

多くの人々が患うこの「三日坊主」の原因も、希望の形を見失うからに他ならないのだろう。

 人はまず、一つだけの使命感をもって生まれる。

それは「生きる」ということ。

どうであれ、「生きる」ということである。

そして、年を取り、「生きる」ことが必然であると気づくころには、多くの人は周囲から受ける「愛」を使命感に変えて生きることとなる。

あとは人生の暇な時間を道楽として扱い、いかに愛する人たちと笑いながら過ごすかを目指し、生存する。

 ここで「多くの人」と表現したのは、人々の「愛」を受けたり、それに答え、尽くすことに懐疑的、もしくはそれだけでは生きられない人々がいるからだ。

これは生い立ちであったり、個人の経験によって形成される習性のようなもので、大抵の場合、彼らは多くの人が必然的に形成するはずの「使命感」を受け取れなかった事実や自覚から、アイデンティティの欠如、および独自の死生観に直面し、「希望の形」やその糧となる「夢」の入手ルートを自ら形成するという仕事を負うこととなる。

その困難さ、そしてその過程で常に夢を欲し続ける飢餓の苦しみに希死念慮を抱いたり、感情的になった挙句、反社会的な行動を取ることもしばしばある。

わたしもその内の一人だ。

 

 我々が「希望」めいたものを思い出そうとするときに、まず行おうとするのは「足し算」である。

それは応急処置であり、本格的な手術には成り得ない。

挫折した「希望」を再び形成するには、その過去を切り開いて、真摯に向き合う必要がある。それは複雑骨折の手術の様に、深刻であるほど困難を極める。

だが、挫折した「希望」の破片を取り除くまでは、再び歩き出すことはおろか、新しい骨格を形成することもままならない。

「夢」の摂取は、「希望」の手術の後でいい。

手術後の「夢」は病院食のように味気ないかもしれない。

しかし、再び歩けるようになるころには、そのくらいの「夢」が自身に合っていること、自身の「希望」にはどういった「夢」が必要なのかについて分かるようになるだろう。