ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

「死にたい」と言う薬の服用方法

「死にたい」と言う薬の服用方法

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 これは心がそう願っていることを肯定することによって得られる療養効果、リラクゼーションのようなものである。

我々は、死の肯定、以外にもこのような場面に遭遇することか少なくない。

たとえば、ダイエットという義務があるのに食べるアイスクリームはとても旨いし、公然わいせつで逮捕されるかもしれないのに試みる青姦は気持ちがいい(やったことはないが)。

つまり、「生きなければいけないのに、死にたい、というのは気持ちいい」ということである。 しかし、この言葉を信用して死んではいけない。 必ずしも、心が発した言葉が正しいとは限らないし、必ずしもこの世の言葉が優れた心の翻訳機であるとは限らない。

「死にたい」という言葉は実は言葉の嘘、間違いで、我々はこの状況において「死にたい」と言うときには、「自殺したい」あるいは「死を迎えたい」という意味で言っているのではないのだ。

あるいは「消えてしまいたい」とか言う人たちもいるだろう。

わたしがそうだった。

「存在自体がなくなればいいのに」というのが、とりわけ10代中盤頃にわたしの心が発していた声だった。

「死にたい」とも何度もつぶやいたが、そのたびに自分が死にたいわけではないのは理解していた。

では、わたしを含めた、死にたい人類はどうしたいというのか。

答えは簡単で、わたしたちは生きたくないだけなのだ。

仕事にも行きたくないし、飯も食いたくないし、眠りたくもないし、話したくもないし、何もしたくない。

現在における「生きる」ということに伴うタスクをこなしたくない。

けど、実は生きたくもあって、けれど、今日のタスクをこなさないと、明日からは背中を指さされて生きていくような気がする。

こういう訳で、人は苦しむ。

だから、生きることをやめる、というのは必要な人にとっては、とても必要なことである。

対処方法を探すのは簡単だが、熟練する必要がある。

日ごろから心に耳を澄ませて、自分だけの真の言葉を覚えておかなければいけない。