ホシノアカリ ー水瓶ー

小説を書いています。日常や制作風景などを発信します。

【近況】むちむちぷりんのみずみずしさと錆びた青二才。

 欲求不満なホシノです。

最近、好きなように文章が書けなくなってきました。

立場的にはとても自由に書けるはずの立場。

しかし「作品」の完成が必ずしも私にとっての「喜び」ではないのです。

ドストエフスキーも同じようなことを言ったそうですね。

彼と私はずいぶんと違いますが。

楽しいことを発送して、そこに骨組を与えて動き出すまでが楽しいんです。

そこから肉付けをする行為が、骨格を作ってしまった人間にはつまらなくて仕方がない。

そんなことだから絵を描くほうが楽しくなってしまう。

まあ、絵は思う存分楽しめばいいと思いますが。

 

 いま思えば物事を完結させたことが、ほとんどないんです。

自分はMBTIの性格診断でINTP‐A(完全なINTP)と出たわけですが、とても適格ですよね。

勉強も小説も、なにもかも自分が設置した目的の完成の光が見えたところで終わる。

その目標の位置が高いおかげで、中途半端でもそこそこの結果は生み出せるが、やはり「生きていく上(嫌いな言葉)」では困ってしまうわけですね。

が、が、が、が。と読み返してみればずいぶんと青臭いことを書いています。

でも、こうやって濃を出してしまわないといけない。

そしてなんとか時間をかけても、骨組みに肉付けをしていかないと生きていけない。

 

こんな時は良い小説でも読むべきでしょうか。

最近は「むちむちぷりん」を読んでいます。

芥川賞作家でもある宇能鴻一郎の代表的な官能小説です。

表紙の長尾みつるさんのイラストが魅力的で、この本のエロさをグッと引き上げていますね。

そんな「むちむちぷりん」の外観ですが、中身の具合を紹介しましょう。

実は三章ほど、つまり三分の一程度しか読んでいない私。

しかし、もう一章目の「ケイバ未亡人」を読んでいたら時代の匂いが漂ってくるんですね。

この小説は告白文体に豊富なオノマトペを織り交ぜた作品ですが、その口調や言い回しに、平成生まれの私では見ることのできない景色がなだれ込んでくるのです。

昔の女性は今より多くの言葉の頭に「お」を付けるんですね。

「おつゆ」とか「おなべ」とか「お食事」とか。

今の時代でも使うには使いますが、独り言ではまず使いませんよね。

「今夜のお食事はお鍋にしようかしら。でもおつゆはあったかしら?」

こうしてみると井上ひさし先生がおっしゃる「言葉の性別」はなくなりつつあるのですね。完璧ではないけど、確実に消えている。

言葉でも男女平等(もしくは同等?)という訳です。

これは大きなことで、言葉を扱う作品には多いに影響してくる。

まあ、「淘汰」されていくだけなので、作り手にとって意識的な苦労はないかもしれませんが。

しかし、このような「言葉の性別」がなくなるのは、個人的には楽しくないですね。

エロスをなくしていいのは、人間が鉱物になったときだけ。

私はこの作品から「時代のセックス」、「言葉のセックス」などを読み取りました。

古臭いのではなく、みずみずしいままの。

 

以上、近況?と最近読んでる「むちむちぷりん」についてでした。